「伝説の『富山県棋界最強棋士』」の第3回です。
そんな日々も、突然終焉を迎える。「斬り合い」が始まってから数ヶ月後、「甚四郎さん入院」の一報を村上支部長宅で聞いた。杉本さんなどはからかい半分、「桶屋のせいやわ。」などといじってくる。しかし、福澤前支部長の「とにかく、何があっても、絶対にあの人とだけは将棋を指したらだめやぞ!」という言葉の意味を心底理解し、他者に語らぬ心身の不調を実感していた私は、気の利いたジョークで返す余裕もなく、乾いた薄ら笑いを浮かべ、受け流すことしかできなかった・・・。しばらく後、ダメージが幾分かとれたところで、村上支部長に教えてもらった甚四郎さんの入院先の病院へと見舞いに向かった。看護師さんに案内された病室のベッドの上で、甚四郎さんはぐっすりと眠っていた。「寝ておられるから、今日はこれで失礼します。」私がそう言うと、看護師さんが「もうすぐ食事の時間なので起こしますよ。」と言って甚四郎さんを起こした。「ああ、先生。よく、こいとこまで来られたね。」「甚四郎さん、大丈夫ですか。早く元気になってください。」その日はそんな挨拶程度で失礼することにした。(元気になったらまた指しましょうとは、口が裂けても言えなかった・・・)それからというもの、二人の休日は、某老人福祉施設での「斬り合い」ではなく、病院での「対話」に舞台を移した。思えば、某老人福祉施設では、感想戦ですら一言二言で終わり、会話らしい会話というものはほとんどしたことがなかった。相変わらず、私のことを「先生」と呼ぶ甚四郎さんが、未だに私の職業も知らないくらいなのだから・・・。しかし、舞台を病院に移したことで、寡黙だったはずの甚四郎さんは大変饒舌に昔のことを話してくれ、私もそれを興味津々で聞きながら大いに会話を楽しんだ。「あの時、花村君はねえ。」などと、プロ名人戦の挑戦者にまで昇りつめた花村元司九段の「東海の鬼」時代には香落ちなどで指していたこと(上手「東海の鬼」)、名古屋在住時代の生活(真剣師のたまり場)のこと、何十年も将棋を指していない間はずっと囲碁を打っていた(俗語の「真剣」で)話などなど、まるで私もその場で見ているかのように、色鮮やかに話してくれた。また、某老人福祉施設訪問の際には、手土産一つもっていかなかった私であるが、病院を訪れるようになってからは、「時間のある時に、これ読んでください。」などと言って、過去の将棋世界及びその付録等を置いてくるのが毎回の習慣となった。互いに、もう二度と対局する機会がないことを薄々感じながら・・・二人は「相手を斬り合う」関係から、「相手を知り、いたわり合う」関係へと大きくシフトチェンジしていったのである・・・。
その後、職場の多忙な時期の波にのまれ、1か月ほど見舞いに行けなかったある日のこと、村上支部長から甚四郎さんの訃報についての連絡を受けた・・・。葬儀には出席できなかったが、後日、香典袋を携え、村上支部長から教えてもらった、甚四郎さんの息子さん宅に伺った。今となってはうっすらとしか覚えていないが、「空前絶後の『富山県棋界最強棋士』と、遅ればせながらも同じ時代に巡り会い、対局させていただいたことに感謝しています。尚、今後『心の真剣』は二度と使うことなく、今日、この場に置いていきます。また、甚四郎さんが魅せてくれた『魂の一手』は生涯忘れません。これまで本当にありがとうございました。」等々、ご仏前で伝えた気がする。某老人福祉施設で繰り広げられた激闘の日々を終え、伝説の「富山県棋界最強棋士」の最晩年を見届けた私は、その後、虚無感にさいなまれるとともに、将棋に対する情熱を次第に失っていった・・・。
<あとがき>2017年1月、寄稿文で、「私の将棋練習法」について書かせていただきました。性格上、文章の校正については、きりなく取り組んでしまい、これが最後と言いつつブログ担当者の荒木秀夫さんに最終稿を送ってはみるものの、結局何回も「待った」をお願いしてしまいました。(後日、読み直しても、その度に新たな修正箇所が出てくるので、やはりきりがありません・・・)そんな荒木さんとのメール交換の中、私が「次回は『伝説の富山県棋界最強棋士、広野甚四郎さん』について書いてみたい構想が湧いてきました。」と冗談半分で何気なく書いたところ、荒木さんから「ありがとうございます。広野甚四郎さんの話などはかなり貴重なものだと思いますので楽しみにしたいと思います。」と、すぐに丁寧なお返事をいただいたことが、今回の執筆のきっかけとなりました。「甚四郎さんの思い出か・・・。どんな感じになるか、やらんなん仕事もあるけど、ちょっと書いてみようかな?」埃まみれの記憶を元に少し書き始めると、当時の熱い日々がよみがえってきて、止まらない止まらない・・・。結局2日程で一気に書き上げてしまいました。しかし、読み返すと、「こっちの表現の方がいいかなあ。」などと、またしても校正作業のエンドレス状態が始まる始末。結局、本文は2017年1月上旬に完成し、荒木さんに一旦原稿を送ってはいたものの、修正にしばらく時間をくださいと言ってから忙しさにかまけ、放置したまま時が過ぎておりました。荒木さんおっしゃるところの「かなり貴重な甚四郎さんの話」をきちんと説明するのは、明らかに私のキャパを越えた作業ではありますが、しかしこのままだとせっかくの力作(笑)がお蔵入りになるのも忍びないので、この度寄稿に踏み切った次第です。
尚、今回執筆しながら、若かったあの頃とは違い、当時の甚四郎さんの気持ちが、おかげで少しは見えてきた気もします。あの時、甚四郎さんは、こちらが勝手に感じていた内的世界とは違う気持ちで私と将棋を指していたのではないか。私を命懸けで「斬り」にきたのではなく、私に命懸けで「教えて」くれていたということを・・・。
また、文中に「いやな予感的中率99.99%」と、お世話になった分、何度も登場してくる村上義和支部長の第六感の鋭さを書いた箇所がありました。敢えて100%にしなかったのは、甚四郎さんと将棋を指したことが、私にとって本当によかったと思っているのがその理由です。今回の執筆を機に、忘れられない「魂の一手」を手本とし、失った将棋に対する情熱を取り戻すべく、これから精進していきたいと思います。
2018年8月31日 桶屋 郁夫